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「自由と自己責任」という嘘 〜自由に生きなさいという脅迫に負けるな〜

リクルートの昔の新卒採用広報で「自由に生きなさいという脅迫に負けるな」というコピーがあった。


現代の民主主義万歳の世の中では「自由」は最高価値に等しい扱いを受けており、「自由にしていいよ」と言われることは喜ばしいことのはずである。それが「脅迫」になるというところが僕には一瞬意外であった。


だが、よくよく考えてみて、確かに「脅迫」だなあと思えて納得した。


「自由にしなさい」は言い方を変えれば「勝手にしろ」ということであり、さらに言えば「勝手にしたらいいけど、お前がどうなろうとも俺は知らないからな。自分で自分の責任は取りなさい」というメッセージが大抵の場合含まれている。


少し前に成果主義が大はやりだった時代に人事の世界でもよく言われていたが、自由には自己責任が伴うということである。


誰かに指図されてした行動の責任は、行為者ではなく指示者に責任がある。しかし、自由で何からも束縛を受けない中、自分で自発的に行った行為については自分が責任を取らなくてはいけない、ということだ。


今までは会社が社員の生き方や働き方を指図してきた。だからその通りに動けば後は面倒をみてやる。しかし、現代では会社も社員に「正しい」方向を示すことができなくなった。だから、これまでと違って、もう社員の皆さんを束縛することはせず自由にさせてあげるから、その代わり面倒も見ないからね。成果だけ見て報いることにするから、個々人でそれぞれ頑張ってね、みたいな。



しかし、そもそも、何からも指示や束縛を受けない行動があるものだろうか。



いや、そんなものはおそらく無い。



生まれ落ちた環境、持っていた才能や容貌、周りにいる人々の状況、本能のような動物としての人間が予めプログラミングされた性質、そういったものはある個人の意思の枠外にあることであり、(少なくとも初期条件としては)どうにもならないものである。


しかし、そういうものに個人の行動は強い影響を受けている。


成果主義にシンパシーを抱く人は、まずおそらく優秀な人で、その優秀さは自分個人の意思や努力によって培われたものと思っていることが多いのではないか。


でも、例えば仕事や勉強を頑張れる、努力できるといった才能も自分からではなく、両親の性格や教育環境などの外側から与えられたものから発生しているとしたら、彼らの優秀さは完全に彼ら個人のものと言えるだろうか。



逆もある。



毎度のうろ覚えで恐縮ですが(新幹線の中なのでお許しください・・・)、歎異抄か何かで見た気がするが、親鸞が自分を信奉する弟子が「何でもします」と言うので、ちょっとイケズなことを言う。「なら100人殺してこい」みたいな。


もちろん弟子は「できません」と言う。そこで親鸞は「自分で何でもできるものではない。戒めよ」みたいなことを言う(うろ覚えですよ)。


そこまでなら単なるイケズな気もするが、そのあと(確か)「人の行為は様々な因縁によって定められるもの。逆に、1人も殺すまいと思っていても、何百人も殺さざるを得ないような状況に追い込まれる人もいる」というようなことを言った。


さすが、悪人正機親鸞上人!(うろ覚え)


そうそう、そう思う!



いろんな人がいろんなことをいろんなところで毎日しでかしているが、それらはけして自由意思で勝手に動いているのではなく、大きな流れの中で個々の役割に応じて衝き動かされている、と僕には思える。


最近あった京大カンニング事件の報道とかを見ていても、あんなことをしてしまったのには窺い知れない深いわけがいろいろあり、どうしようもなかったのだろうと思えて、とても声高に非難するような気持ちにはなれない(僕は「罪」ということ全般に関して、あまり厳しくなれないようです。自分も悪人という意識もあり)。


みんな誰だってああなっていた可能性があるのだから。


そんな風なことを考えていると、「自由にさせてやるから自己責任ね」と言うのは、やはり違和感を持ってしまう。冒頭のコピーを書いた方も、もしかしたらそんな気持ちがあったのではないだろうか。


毎度のごとく、じゃあどうすればいいのかについては答えはない(すみません)。


完全な自由というのがありえないのだから、自己責任もありえないというのは、抽象的な理屈の世界では成立するかもしれない。だが実際にそれをベースに社会を運営すれば、どんな犯罪も個々人「無罪」であり、社会全体だけが「有罪」ということになる。そんな社会は今よりも治安のよい社会だろうか。


だから、「自由と自己責任」というのは嘘っぽい原則であるとは思いながらも、会社を含めた現実世界においては僕自身も採用せざるをえないでいる。いや、採用しなければ僕自身が社会で生きていけないだろう。


しかし、自分の心の世界やプライベート等のごく身近な世界においては、キャパがある限りはできるだけ「自由と自己責任」などという冷たい原則を採らずに、自分と他人とはいつも何かどこかでいろいろつながっており、双方とも何か大きなものの一部であるという意識で臨みたいと思う。


世の中に自分と関係ないことなどない。人は生きている以上、誰かに影響を与えずにはいられないし、誰かの影響を受けずにはいられない。


今の幸運な自分は、様々な要因の相互作用で出来上がった結果に過ぎず、今の不幸な誰かは、明日の我が身かもしれないのだから。