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それでも桜は咲く 〜刹那と永遠〜

先週末、京都御苑に子どもと二人で
今年初めての桜を見に行ってきた。


幼稚園入園に際して、子どもが大きくなってきたので
購入した電動自転車に乗って。


最初は梅小路公園のSL博物館にでも行こうかと思っていたが
すぐ思いついて、踵を返し、京都御苑に行くことに。
そろそろ桜が咲いているのではないかと思ってのこと。


出水あたりの入り口から入ったのだが、そのあたりは梅林。
もちろん既に満開を過ぎたあたりで、それはそれできれい。
しかし、目的の桜はない。


桜を求めて、御苑の敷き詰められた小石の上を、
電動自転車のパワーアシストを受けながらなんとか北上。


御苑の北西にある児童公園あたりに着くと
近衛家跡の池にある近衛の糸桜を中心として
やっぱり桜は咲いていた。


世の中でどんなことが起こっていようとも
桜は咲いてくれる。
こんなにうれしいことはない。


ここには毎年来ているので、見慣れた風景ではある。
しかし、いつ見ても、言葉にできない美しさ。
飽きることはない。


何を思うでもないが、桜に見とれて、しばらく時間を過ごした。


子どもはと言えば、残念なことにまだ桜には興味がないようだ。
砂場で意味なく砂を掘ったり埋めたり、ブランコに乗ったり、
すべり台ですべったり、シーソーで遊んだり。
桜は目に入らない。


それでも、子どもの頃の記憶のキーになって欲しいと
肩車をして、桜の花を間近に見せてあげた。
一応「きれいだねー」とは言っていたが、はななだ心もとない。
でも、いつかどこかでこの光景を思い出して欲しい。



・・・



言い古されたことだが、
桜はぱっと咲いてぱっと散る
その潔さ、切なさが日本人の死生観と合うように思う。


いつのまにかやってきて、いつのまにか去っていく桜。


個々の人間も、広い世界、永遠の時間から見れば
桜の花びらのように、世に出るのはほんの一瞬。


しかし、桜の太い命の幹は、春がやってくるたびに
同じような美しい花を咲かせる。


個々には刹那の命しか持ちえない我々も
大きな何かの一部であると感じることができれば
永遠の命を得ることができる。


一枚の桜の花びらであるはかない存在の自分にとって
幹にあたるものはなんだろうか。