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今日もぶるー 〜さみしさの故郷〜

悲しい歌が好き。
別れの歌が好き。
願いが叶わない歌が好き。


自分の気持ちを代弁してくれているような気がする。


交差点が好き。
近づいて行って、交わったその瞬間から、今度は離れていく。永遠に。
渋谷のスクランブル交差点などは、通るたびにぞくぞくする「嗚呼、無常」と。
尾崎の「Scrambling Rock'n'Roll」を頭の中で流しながら。



一方、らぶらぶな歌はあまり共感できない。
「お母さんありがとう」みたいな前向き感謝系ラップとかも微妙。
少女時代は、許す。


あまりハッピーなものは自分には似合わない気がする。



どこか悲しげ、物憂げ、切なげ、寂しげなものが好き。



それは何故か。



昨日のランチでも同僚から
「何故あなたはそんなにさみしがるのか」
と問われた。


たくさん友人もいれば妻子もいる。会社の仲間もいる。
いるじゃないか、さみしくなんかないじゃないかと。



だのにーなーぜー



その時はうまく答えられず
「て、転勤族だったから、幼なじみいないし・・・」
という言葉が咄嗟に出た。


でもそれは嘘。


確かに僕には幼なじみがいない。
小中高と、その時所属していた集団における主流とは違う進路ばかり取ったので都度関係が切れてしまい、実質今は大学と社会人以降の友人しかいない。
しかし、その彼らとは十分過ぎるぐらい仲良くさせていただいている。



そういうことではない。
友達がいないからさみしいのではないのだ。



諸行無常。生者必滅、会者常離。



せっかく出会った友達、恋人、家族・・・これらすべてと必ずお別れしないといけない。
出会いは別れの始まり。出会うから別れなくてはいけない。
人生の道の途中で、いろいろな人と出会うけれども、結局、人間は、一人で生まれてきて、一人で死んでいく。


どこにいても、誰と会っていても、ふとした瞬間にそういうことを思い浮かべてしまう。
だから、いつも、さみしい。


そう思うようになったのは、平均寿命の折り返し地点に来て、少しずつ死を実感したからかもしれない。あと僕は今生きてきたのと同じ時間だけしか生きられない。
また、高校時代の友人や、父方の祖母、会社の先輩や上司など、身近な人も何人か他界した。ペットの死にも何度も直面した。死ぬなんて思わなかったのに。
そういう現実に圧倒されて、「ああ、永遠は無い」と本当に本当に実感したような気がする。知らぬ間に。
それで、さみしくなった。



あー、さみしいなー。



しかし、さみしさにはよい側面があると思っていて、実のところ、僕は何らネガティブに感じてはいない。


無尽蔵にあるものは希少価値を失う。今でなくてもよいのであれば、後回しにする。


でも、さみしい人達は集まる。寄り添いあう。
さみしいから、出会った人のことを知ろうとする。
もう二度と会えないかもしれないから、この一瞬を大事にする。


さみしさゆえの「あがき」は、実はこの人間社会に「暖かさ」をもたらす。
さみしさやはかなさから目をそらさず、さみしさや悲しみを抱きしめて生きてこそ、人生は輝きをます。


だから、うざいかもしれないですが、僕はこれからもさみしがってしまうと思います。


僕にとってはさみしいのは趣味です。