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遠い昔からある場所 〜京都東山のすばらしさ〜

あむない、あむない。



3日坊主になるところであった・・・。



エッセイとかではなくブログなのだから、日記みたいなものも書けばいいのだと思い直し、他愛もない(オチもない)ことも書いてみる。




今日は午後から3歳の息子と二人で東山を散策した。心がくしゃくしゃした時には、たまに東山あたりをぶらぶらすることにしている。


東山一体は(勝手に)自分の庭のように感じていて(違いますが)、歩いているだけで心が落ち着いて来る。


かれこれ京都歴は20年ほど。東山は何十回行ったか分からない。その間、ずっと自分の心の支えになってくれた。



何がそんなに落ち着くのか。



一つは、東山は「(幻想の)京都らしさが切れない」ので、ずーーーっと浮世離れした異空間を進んでいるような気分に浸れる。そのため、現実世界に引き戻されずに、自由に意識が遊飛できる。


実は京都は意外に小汚いところもある町なのだが、銀閣寺から清水寺にかけてはそれがない。全部イメージ通りの想像上の京都(「そうだ、京都、行こう」のような)で敷き詰められている。想像上の京都は心地好く、安心できる。


それはおそらくこの町が千年もの間都だったことと無関係ではないと思う。


安心できる=驚かされない、というのは、この一帯が千年かけて細部に渡り人工的に構成されたからなのではないか。人間の脳が想像したものをそのまま作った場所。それは脳にとって、フィット感があるに違いない。


だから安心できる。リラックスできる。そして心が癒される。


ただ、リラックスはできるが、摩擦とか違和感が少ないので(僕にとってだが)クリエイティブになる場所ではないかもしれない。


東京の方が僕には違和感があり、それゆえにいろいろなことを考える。疲れる。しかし、その刺激は新しいことを産む場合がある。



もう一つの東山の魅力は、自分にとっても、日本全体にとっても、歴史の舞台であること。


日本にとって、というのは言うまでもない。今日も龍馬の墓に行ってきたが、歴史上の人物達がこのあたりの往来を闊歩していたのだと改めて実感する。


より重要なのは、自分にとっても、というところ。哲学の道であの時あんなことがあった。南禅寺の山門でどうのこうの。安井金比羅宮で絵馬を見ながらああこう。みたいな記憶のかけらが至るところに落ちている。


過去の記憶とは紛れも無く自分の分身である。それも、既に失われてしまったが故になおさら愛が固着する分身。そんなものが落ちている。


散策の途中でそれらのかけらは一服の清涼剤となる。気分に微笑ましさを与えてくれる。何でも許せる優しい気持ちになる。


悩んでいるときなどにはうってつけの効果である。



最後の東山の良さは、見晴らし。


東山というぐらいなので山の麓であり、一帯は高台である。京都には高いビルが無いのでちょっと昇るとすぱんと京都中が見渡せる。


例のあの清水の舞台のイメージ。龍馬の墓からも京都全体が見渡せそうな勢いだった。


見晴らしが良いと遠くが見える。遠くが見えると、自分が小さくなる。自分が小さくなると、悩みもちっぽけに思えるし、大きなものに包まれている感覚が生じる。



そんな風に東山は僕にとって大事な地帯。


多分、同じように(あるいは僕以上に)この地を愛する人が何百万人もいると思うと、ジェラシーがわく。


でも、それでもいいと思えるぐらい魅力ある場所なのである。